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高等シャーマニズムとは [高等シャーマニズム]

シャーマンの修行には求道的な側面があって、深い無意識の智恵が求められます。
ですが、一般に、部族社会のシャーマンが持つ世界観は、その部族の世界観です。

部族の世界観や神話には、シャーマンなどの高位のイニシエーションを受けた者だけが知る秘密性の高い部分が存在することが多くあります。
ですが、それは部族の世界観の深い部分であって、一般に、シャーマンが部族の世界観そのものを否定することはありません。

また、日常的な意識が見る「物質世界」と、シャーマンがトランス状態で見る「魂の世界」、あるいは、「天上世界」や「地下世界」は、異なる原理が支配する世界です。
ですが、部族の世界観では、「霊的世界」が基盤となって「物質世界」が存在しているのであって、「物質世界」の存在やその意味を否定することはありません。
部族のシャーマンにとってもこれは同じです。

ですが、仏教の「空思想」のように、特定の世界観を「幻影」として相対化する、もしくは、否定するような思想を持ったシャーマニズムがあって、当ブログでは、これを「高等シャーマニズム」と呼びます。

また、「不死」に至るような、高度なレベルのイニシエーションによって人格を成長させるシャーマニズムも「高等シャーマニズム」と呼びます。

「高等シャーマニズム」という言葉は、あまり良い表現とは言えませんが、「高等魔術」に合わせたものです。


<部族社会と国家社会>

一般に、国家が発生する場合、それ以前の社会の世界観と組織が大きく変わります。
特定の部族が他の部族を支配する場合も、そうではない場合でも、初めて「王」という存在が誕生します。
「王」は、「シャーマン」とも、「首長」とも、「戦士の長」とも異なる存在です。

部族社会では、聖性や他界との交流を担う中心的存在が「シャーマン」です。
それに対して、「首長(酋長、族長)」は、伝統的な生活規範を称揚して説得する存在であり、政治的権力も、経済的権力も、宗教的権力も持ちません。
また、戦争の時には、「シャーマン」とも「首長」とも違う人物が、「戦士の長」として指揮を担います。
宗教、政治、戦争は、それぞれ別の領域であって、別の能力が必要とされるのです。

それに対して、国家社会の「王」は、宗教、政治、戦争のすべての指揮権を一身に担う存在なのです。
「王」は、すべての国民の上に立ち、聖性を独占し、すべてを統一する「一」なる存在なのです。


部族社会と国家社会の間には、大きな一線があります。
一般に、部族社会には、国家を生まない、国家を否定するような働きをその内に備えています。
部族社会が発展して自然に国家が生まれることはありませんし、他の部族を支配するようになることもありません。

一般に、生産力が向上しても、なんらかの形でそれを消費、蕩尽する祝祭的な仕組みが作られるなどするため、生産物の蓄積が自然に社会組織の変化を生むことはありません。
交易が増加しても、交易の場、あり方を制限するため、文化的交流が盛んになって、世界観や社会組織の変化につながりません。

農業のための大きな灌漑施設の必要性や、他国の侵略に対抗するための団結の必要性などは、国家を生むきっかけになるかもしれませんが、そこには、大きな飛躍があるのです。


<国家に抗する思想>

国家的なものに反抗する文化や宗教運動については、南米のインディオを対象にしたピエール・クラストルの「国家に抗する社会」などの研究があります。

国家が生まれた時、あるいは、他国から支配さを受けた時、国家の世界観と、部族の世界観の衝突が生まれ、同時に、世界観を相対化する契機も生まれます。

また、クラストルは、キリスト教や国家に組み込まれようとした南米のグアラニ族の中に、シャーマン的な預言者が現れて、それらを拒否する、「一を拒否する思想」、「一を悪とする思想」が生まれたことを紹介しています。

グアラニ族は、キリスト教や国家、王は、「一」なる存在、「同一性」の原理を前提とすることを見抜き、それを否定したのです。
真の力あるものは、「コレであり且つアレ」なのです。

この「一を否定する思想」、「同一性(同一律)」の否定は、仏教の思想とも似ています。

仏教が生まれた頃のインドは、アーリア人の侵入によって、各地に王国が生まれ、同時に交易も盛んになっていました。
そして、シャカ族は、コーサラ国に、コーサラはマガダ国に滅ぼされました。

釈迦は王子だったという伝説がありますが、実際は、シャカ族はチベット・ビルマ系の部族で、その社会は国家ではなく部族社会だったとする説があります。
それならば、釈迦は王子ではなく、首長の息子のような存在だったのでしょう。

その中で、釈迦は、王国でもなく、部族社会でもなく、第3の方向を目指しました。

仏教の解脱思想、「空思想」は、「一」に統一する王国の世界観を否定すると同時に、部族社会の世界観をも否定するものでした。


<幻影主義型のネオ・シャーマニズム>

現代の「ネオ・シャーマニズム」の中には、特定の世界観を「幻影」とみなす思想潮流があります。

「幻影主義型」のネオ・シャーマニストには、トルテックのシャーマニズムを継承していると言うカルロス・カスタネダやドン・ミゲル・ルイス、ハワイのサージ・カヒリ・キング、そして、アルベルト・ヴィロルドらがいます。

彼らは、それぞれのあり方で、伝統的なシャーマニズムを学んでいて、それを継承していると主張しています。
ですが、同時に、カスタネダは文化人類学者であり、その文化相対主義的な思想の影響を受けています。
カヒリ・キングやヴィロルドは現代の心理療法などを学んでいます。
皆、それらの学問や、仏教などの世界の諸宗教を学べる環境にいました。

ですから、彼らが語るシャーマニズムの思想が、どこまでが伝統的なもので、どこからが彼の創作であるのかは不明です。
「幻影主義型」ネオ・シャーマニストが継承しているという「トルテック」や「フナ」などの歴史的記録がなく、実証できません。

ですが、中南米のシャーマニズムは、テオティワカン、トルテカ(トゥーラ)、インカなどの王国や帝国時代を経ていますし、ハワイのシャーマニズムも王国を経ています。
その歴史の過程のどこかで、国家に抗し、「一を否定する」ような「幻影主義型」のシャーマニズムが生まれ、現代までを継承されてきた可能性はあります。


<高位イニシエーション>

シャーマンや部族の秘密結社のイニシエーションは、一度だけとは限りません。
多段階のイニシエーションを組織し、深い人格変容を促す部族も各地にあります。
古い文化を継承するアボリジニーも多段階イニシエーションを持っています。

また、「不死性」を獲得した特別な英雄の神話が、各地で語られます。

多くの部族の世界観では、死者は徐々に無個性な祖霊に帰一して、やがて、新しい霊魂として再生すると考えます。
ですが、英雄などの特別な霊魂は、一定の不死なる(再生能力のある)個性を保った存在となると考えます。

一般に、「高位イニシエーション」は、最終的に一種の「不死性」の獲得を目指します。
これは、死なないということではなくて、根源に一体化して、生と死を相対化し、最大限の再生力・創造力を身につけるということです。

「幻影主義」的な「空」思想を持たずとも、そのような「高位イニシエーション」を備えたシャーマニズムを、当ブログは「高等シャーマニズム」と呼びます。

例えば、マヤ/トルテカの神官たちは、霊的成長によって第二の心臓と顔を作って、太陽を養うことを目標としていました。
そして、トルテカでは、半神半人半獣のケツァツコアトルが王・神官の理想の姿であり、その役職名でもりました。

ケツァツコアトルは太陽の息子であり、冥界で父の遺骨を復活させて、シャーマンのように鷲に乗って天に帰りました。
また、悪神に騙されて殺されましたが、自身を火葬して天に昇り、心臓を金星にしました。
つまり、ケツァツコアトルは復活を司る神であり、不死の英雄です。

マヤ/トルテカに「高位イニシエーション」があったかは不明ですが、少なくとも理念として、不死なるケツァツコアトルがシャーマンや神官の目標です。

トルテカのシャーマニズムの伝統を受け継ぐと主張したカルロス・カスタネダも、彼の師のドン・ファンが「無限の世界」に旅立ったことを書いた時に、ケツァツコアトルに言及しています。

(試論)

*「アーバン高等シャーマニズムの思想と実践」もお読みください。


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アーバン高等シャーマニズムの思想と実践 [高等シャーマニズム]

「高等シャーマニズム」というのは、と当ブログが想定する思想潮流です。
その意味は、「高等シャーマニズムとは」で説明しています。

幻影主義型のネオ・シャーマニズムの各派や、シャーマニズムの影響を受けたプロセス志向心理学などの心理療法を参考にして、「高等シャーマニズム」の思想の原則、実践法を、現代人が実践しやすい「アーバン・シャーマニズム」として、抽出・構成します。


<幻影>

一般的に個人や社会が持つ世界観や価値観は、相対的なものであって、真理ではなく、「夢」や「幻」のようなもの、根拠なき「信念」です。
また、自我の観念も同様に幻で、それに基づく利己主義的価値観は間違いです。

こういった「信念」は、その人の現実を作り、心を作り、行動を作ります。
ですが、それらは人の自然なあり方を妨げるものです。

ですが、シャーマンが、トランス状態で体験する世界の根底には、力そのものや、すべてが変容する姿として現れる次元があります。
この世界は、日常の現実世界を形作っている世界であり、その意味で、より真実性が高い世界です。

また、その根底の世界が、イメージや人格として現れ、言葉や物語で語りかける次元があります。
これらは、日常の現実世界から隠れているもの、抑圧されているもの、これから生まれようとしているもの、可能性として存在しているものを象徴的に表現しています。
ですから、メッセージとして役立てることができます。


<肯定の思想>

原則として、自然に生まれるものを、善なるものとして肯定し、受け入れ、称賛します。
逆に、それを妨げるものは、拒否すべきものです。
上に書いた、間違った「信念」は、自然に生まれるものを否定、制限します。

自分の考えたこと、感じたこと、行動したことの基になる、自分の「信念」を自覚して、それを否定的なものから肯定的なものに変える必要があります。

一つの方法は、日常の中で、常に自分に対して自覚を保ってこれを行います。
それによって、現在の、自分の体験、出来事に対する判断、感情、行動を肯定的なものに変えます。

もう一つの方法は、過去の体験を順に思い出してこれを行います。
特に、トラウマになっている体験、後悔している体験、気になって忘れられない体験は、重要です。

この行いによって、過去の体験に対する解釈を変えます。
さらに、肯定的な判断、反応、行動をしたと瞑想して、過去の体験の記憶を書き換えます。
例えば、謝るべきは誤り、誉めるべきは誉めます。
こうして、滞っていた過去のすべての感情のエネルギーを開放します

「信念」の問題ではなくても、否定的な体験は、その記憶を書き換えます。
過去の体験とは、その人の記憶でしかなく、夢と違いがありません。


<否定的な言葉を使わない>

批判することは、抑圧を与え、人を萎縮させます。
無意識は自他を区別しないので、批判するのが自分であれ、他人であれ、同じです。

ですから、自他に対して、批判は行いません。
他人に批判されても、自分と無関係だとして、受け取りません。

好ましくない事に対しては、批判せず、許し、哀れみ、応援します。
批判の心や怒りが残っている場合は、「許し」の瞑想、集団的儀式を行います。

逆に、肯定的なもの、自然なものは、愛し、慈しみ、感謝し、称賛します。


批判でなくても、否定的な言葉は、同様の効果を与えます。
「できない」、「良くない」といった言葉は、原則として使いません。


<今、起こるに任せる>

上にも書いたように、常に自分に対して自覚を保ち、原則として、今ここの体験に集中します。

一つには、言葉やイメージをなしに、生の感覚に集中する時間を増やします。
自然などを見る時、それに感応し、一体化するように見て、自分の内部の自然な変化を促します。

ですが、心に浮かび上がってきたものは、それが記憶であっても今の体験であり、雑念として振り払ってはいけません。
それには何らかの意味があるので、その意味が達成されるようにします。
それを意識し、それから生まれるものが生まれるにか任せ、起こるものが起こるに任せます。

すべての体験、心に浮かんだものに対しては、価値判断せずに中立的な立場から、それを意識して自然にエネルギーを与えます。
そして、イメージや言葉、感情は、自然に変容し、連想が働くがままにします。

こうして、生の感覚に集中して言葉やイメージを現さないことと、夢の中にいるようにすべてを象徴として捉えて連想が進むに任せること、その2つの方向を自然に切り替えるようにします。


<遡上と展開>

今を自覚する場合、言葉やイメージや感情の次元と、より漠然とした無意識的な象徴やフィーリングの次元と、意味の種である無形の直観や直感の次元のすべてを意識します。

そして、意識するそれらの対象の次元を、自然に切り替えます。

言葉やイメージからは、それが生まれてきた根源である直観や直感の次元に遡上します。
逆に、直観や直感からは、言葉やイメージの次元へ、さらには、人格的な物語の次元にまで、自然に成長、展開させます。


<狩猟との類似>

無意識から意識に現れる心的対象は、森の中から現れる動物と似ています。
それは、自然の贈り物です。

自覚しにくい無意識を意識化することは、狩人が森の中に隠れる動物を狩ることと同じです。

ですから、無意識に心を向け、自覚を保つことは、「ストーキング」と呼びます。

そして、その現れた心的対象を最後まで展開して、それが現れた意味を終わらせることは、現れた動物をしっかり食して、その魂を霊界に戻すことと同じです。

狩猟文化は、動物を家畜化せず、動物の主が管理する野生の状態のままにします。
つまり、無意識的な創造性を、言葉の秩序で縛ることをしません。


<治療>

すべての心身上の病理の根源的な原因は、ハイヤーセルフや守護霊などと呼ばれる根源的な自己とのつながりを失うことから生まれます。
そのため、根源的な治療は、それとつながり、そこからの自然な創造、展開を促すことです。

心因性の心身の病気は、自然な状態を制限するような、否定的な信念に由来する調和の乱れです。
治療のためには、制限され、抑圧されたものを意識化して、それを受け入れる必要があります。
さらには、その原因となった「信念」を書き換える必要があります。

そのためには、病気、症状を対象とした夢見を行い、原因を探り、受け入れ、場合によっては、その夢を良い方向に導きます。


<現実世界などの夢見>

覚醒した状態から行う「夢見」は、人の全体的な創造・成長を促し、力や智恵、能力を獲得できます。
「夢見」の方法、対象は無限に多用です。


「現実世界」や「人間関係」を対象にした夢見では、その裏側に隠れた意味を聞き出したり、探り出したりします。
あるいは、夢を進行、展開することで、良い方向に導きます。

夜に見た「夢」を対象にした夢見でも、その隠れた意味を聞き出したりします。
あるいは、夢を最後まで展開して、その夢が現れた意味を完了させます。

はっきりと捕らえることができないものを対象にした夢見も行います。

上に書いたように、漠然とした「雰囲気的なもの」を対象にした夢見では、それをイメージや人格、物語に展開して、その意味を探ったり、そのフィーリングを成長させます。
「一瞬だけ心をよぎるもの」や、「なぜか気になるもの」を対象にした夢見も、同様です。

また、「未来の自分」を対象にした夢見では、自分の成長した姿、調和のとれた姿を見て、成長を促すことができます。


<他界の夢見>

シャーマン的な宇宙像へトリップする夢見も行います。

「地下世界」での夢見は、力の根源である「パワー・アニマル」や、何らかの能力を象徴する「宝物」を獲得することができます。

怪物などの敵が現れた場合は、できれば友好関係を結べば、自分も相手も変容します。
それができない場合は、避けて逃げるか、戦うかを選びます。
場合によっては、怪物に食べられて自分が変容します。
できれば、相手から宝物をもらいます。

「地下世界」には、「原初のエデン」のような、無垢になれる場所に行くこともできます。
また、過去のトラウマを探す「傷の部屋」に行くこともできます。
自分が信じている信念やその起原を探す「契約の部屋」に行くこともできます。
完全な自分の姿を見ることができる「恵みの部屋」に行くこともできます。
様々な宝物がある「宝物の部屋」に行くこともできます。

「天上世界」での夢見では、守護霊や神霊的存在から助言やインスピレーションをもらいます。

「中間世界」での夢見では、「個人的な庭園」を持ち、それを定期的に訪れて手入れし、必要な存在をそこに呼び入れます。
この庭園は、現在の自分の姿が庭園の姿で表現され、それを手入れすることで自分を治療することができます。
また、問題意識に対応した精霊などをここに呼んで、助言や力をもらって解決のきっかけにします。

象徴体系を使った夢見(魔術)も行います。
最も単純な象徴体系は、東西南北に4種の動物や神霊を配するものです。
自分の問題意識に応じて、それに対応する存在と夢見で出会って、助言や力をもらって解決のきっかけにします。


<行為する夢見>

夢見は、ただ見るだけでなく、夢見の意識の状態で、夢を即興的に演じたり、言葉(意味のあるなしにかかわらず)を発したりします。
これは、複数の人間と一緒に行うこともできます。

また、パワー・アニマルを持つ人は誰もがその動物の踊りを定期的に踊りますが、パワー・アニマルにこだわらず、何らかの漠然とした感覚を感じたら、それを表現して、自然に体の赴くままに動いたり、ダンスをしたりします。
何か意味ある動きや身振りが生まれればそれを展開します。

(試論)


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