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伝統文化のコスモロジーが持つ意味 [その他の雑文・雑論]

伝統文化の世界観は、単純に現代の科学的・合理的な見方からすれば、単なる妄想や迷信の類いに過ぎないでしょう。

ですが、伝統文化の中でも、原初的な、狩猟文化の「アニミズム」的な世界観は、人類が数万年を生きた世界観です。
ですから、それは、少なくとも、人間の心の構造を正直に反映した、普遍的な価値を有したものであるはずです。

伝統的世界観が持つ意味の一面を、抽象的になりますが、簡潔に書きます。


<見えない世界と無意識的な心の働き>

伝統文化は、冥界や霊界などの「目に見えない世界」を前提とします。
「目に見えない世界」は、地下のような普通には行けない世界であったり、地上世界の背後にあって普通には見えなかったりする世界です。

この世界は、「見える世界」の基盤となり、それを作っている世界です。
そこには、「見える世界」の原型となる存在と、それを現す創造力があります。


人間の心の活動のほとんどは無意識的です。
「見える世界」は、無意識的な心の活動によって、感覚をもとに言葉やイメージや認識の枠組みを使って構成・投影されて、最終的に意識化されたものです。

ですから「見える世界」と「見えない世界」は、「意識」と「無意識」に対応し、それらを象徴します。
つまり、「見えない世界」は、「無意識」的な心の活動が投影され、それを象徴します。

また、「見える世界」を形作る感覚や概念、イメージは、よく言っても、自然の一部を反映したものでしかありません。

言葉やイメージは、静的で抽象された人工物なので、動的で多様な自然を十分に捉えられません。
ですが、無意識的な心の活動には、自然現象と共通・類似する動的で多様な側面があります。


言葉やイメージが意識しやすいのに対して、象徴の働きや、直感、直観、雰囲気的なものは意識しにくい心の働きです。

これらは、自然同様に様々な心の要素が関係する複雑な働きです。
言葉やイメージのように表象を持たないので、意識化しにくいのです。

ですが、表象はなくても、「あれ」として内省的に思考できます。
ところが、言葉やイメージとして表現しようとすると、多くの苦労と言葉が必要となります。

これらは無意識に働きますが、文化的な象徴表現、象徴的儀礼によって意識化することで活性化することができます。


<象徴と人格の全体的成長>

現代の科学的な世界観を作る認識が概念的であるのに対して、伝統文化のそれは象徴的です。

伝統文化の世界観は、それぞれの自然観察に基づきます。
象徴は、自然の認識によって有効に働きます。

象徴は、連想によって様々なものを結びつけます。
そのため、象徴は、本質的に脱領域的、多義的となります。

それは、様々な「見える世界」と「見えない世界」、マクロコスモスとミクロコスモスを結びつけます。
つまり、自然と社会と身体と心の表裏両面を結びます。

ですから、「見えない世界」の神霊も、自然の力や無意識的な心の働きなどを象徴します。

象徴は、人間の諸能力や人格の傾向、無意識の特定の領域を指し示すだけではなく、それを活性化します。
そのため、体系的な様々な文化的な象徴表現、儀礼を通して、諸能力や人格の全方向的な成長を促します。


また、伝統的世界観が、「見えない世界」を重視することは、自我や意識、そして、言語秩序を中心にせず、それらを作っている無意識な働きの創造性を重視することになります。

伝統文化は、自然の諸現象の死と再生を重視し、それに対応する神々の死と再生を語り、それを反映する定期的な儀礼を行います。
それによって、人は繰り返して無意識へと心を開き、沈めることで、意識を広げ、人格の中心を無意識の創造性へと近づけることが促されます。

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妖怪化した精霊の智恵の神・根源神としての復活 [その他の雑文・雑論]

アニミズムにおいて、人間に対して中立的な自然の諸力の表現だった「精霊」は、国家的な宗教の成立とともに、「妖怪」、「悪鬼」の類とされるようになりました。

ですが、中世インドのタントリズムや日本の一部では、こういった存在が二元論を超えた智恵をもたらす存在や根源神として見直られて、重要な尊格に昇格しました。

我々は、「妖怪」に対する夢見的な瞑想によって、自然な「精霊」の創造性を取り戻して、智恵を得ることができます。


<アニミズムの精霊信仰>

人間の原初的な信仰の形である「アニミズム」は、人間が最も長い時間を生きた世界観であり、人間の心の構造が正直に反映された世界観だと思います。

「アニミズム」では、霊魂があらゆる自然に宿ると考えます。
自然に宿る霊魂は、一般に「精霊(スピリット、タマ、マナ…)」と呼ばれます。

基本的に、「精霊」は、人間に対して中立な存在であり、善悪を決められない存在です。
「精霊」は、創造的であると同時に破壊的にもなります。

アニミズムの世界観では、「精霊」の本来の住処である「見えない世界(霊界、冥界、常世、根の国…)」は、「目に見える世界(地上世界、現し世…)」に対して基盤となる、創造力に溢れた世界です。
2つの世界は言葉の上では二元的ですが、その関係は二元論ではなく、地上世界は冥界の限定した姿であって、冥界は常に現世と密着して包み込むような関係です。

「精霊」の本質は、自然の目に見えない力であって、通常は、直感や雰囲気としてしか感じられない存在です。
それらは本来、人格を超えて、イメージを超えて動く力です。

ですが、人格やイメージ(姿形)を持った存在として人間に現れる(人間が受けとめる)こともあります。

「精霊」のイメージは、必ずしも定まったものではなく、複数の変容するイメージの運動として現れます。
言葉を通したコミュニケーションも行いますが、その言葉は象徴的で超論理的です。


「精霊」に中に、「グレート・スピリット」などと呼ばれる、至高の特別な存在がいます。

一般の「精霊」が、時にイメージを持ち人格性を現すのに対して、「グレート・スピリット」はそれらを持ちません。

「グレート・スピリット」は、原初的存在で、「精霊」を生み、そして、万物に内在して、それを生かす存在です。
そして、法の制定者、つまり、秩序の守護者とされます。

ですが、具体的な世界や文化の創造者とはされなかったり、人間とあまり関係を持たない存在とされたりすることもあります。


「アニミズム」の霊的存在者は、このように、「グレート・スピリット」と多数の「精霊」からなります。
どちらも、「神」と呼ばれる存在ではありません。

「グレート・スピリット」と「精霊」の関係は、一即多の関係で、「グレート・スピリット」は「精霊」を完全に超越したり統合する存在ではありません。


<成立宗教による妖怪化>

人間の原初的な世界観である「アニミズム」は、非定住の狩猟文化で生まれました。
ですが、その後、人間の文化は、定住革命、農業(牧畜)革命、王国革命といった諸革命を経て変化してきました。

諸革命の過程で、多神教が生まれ、さらに一神教が生まれました。
そして、少なくとも、王国革命に至るまでに、人間社会を導く秩序と正義の神々のヒエラルキーが構成されました。

その過程で、「アニミズム」は表面的には消えましたが、変形した形で残存しました

「グレート・スピリット」は、天の秩序の神である「高神」となりました。
中立的な自然の諸力の人格だった「精霊」達は、その一部は、地の豊穣神や、来訪する豊穣神などになりました。
そして、そこから外れた「精霊」達は、「妖怪」、「悪鬼」とされました。

密着していた「見えない世界」と「見える世界」は、分離的したものになって、「天上世界」と「地下世界(遠方の世界)」は、本質的に異なる世界となりました。

ですが、「高神」は死して(冥界に降り)復活することもある神です。
そして、豊穣神となった「精霊」達にも暗黒面がありました。
また、「妖怪(悪鬼)」となった下級の「精霊」達にも、豊穣面がありました。

つまり、彼らには、まだ、一定の両義性を持っていました。

ですが、一神教の誕生によって、「高神」は、他の神々を完全に排除、もしくは、統制する「唯一神」となり、豊穣神や「妖怪(悪鬼)」からは両義性はなくなりました。

キリスト教のような一神教は、異教の神々や、守護霊(例えば、ギリシャのダイモン)も「悪魔(デーモン)」と見なすようになりました。


このように、中立的だった「精霊」は、二元論的な「悪鬼」的存在として抑圧されたのです。


<タントリズムによる妖怪の智恵の最高尊格への昇格>

インド中世に興ったタントリズムは、アウトカースト(インド先住民)のアニミズム的な宗教、特に墓場の魔術的宗教を、仏教やヒンドゥー教が取り込んで生まれました。

これら原住民の宗教の神霊は、支配的で正当な仏教やヒンドゥー教からは、「悪鬼(鬼神)」と見なされていた存在です。
こういった神には、暗黒性・魔性と豊穣性という両義性を備えていました。

大乗仏教は、各地の神霊を、護法尊として取り込んできましたが、密教、特に後期密教の時代になると、「悪鬼」を出自とする尊格が重視されて、仏教内の位階を出世していきました。
そして、最終的には、「本初仏」や「守護尊」といった最高レベルの位階にまで達する尊格が生まれました。

密教では、「悪鬼」と見なされていた神霊達を、仏教の教義によって昇華しました。
彼らは、「精霊」本来の善悪、聖俗などの「二元論」を超えた存在として、悟りへ導く霊的智恵を持つ存在として捉え直されたのです。

精霊的鬼神である夜叉から、護法尊となり、さらに仏・菩薩の化身でもある守護尊へと出世した尊格がいくつかあります。

例えば、夜叉の王で、護衛役だったはずの執金剛神は、金剛手として菩薩に出世し、さらに、金剛薩埵や持金剛になって、根源神である「本初仏」にまで昇格しました。

また、ダキニ(荼枳尼天)は、もともとドラヴィダ系の地母神系豊穣女神で、人間の死肉を喰う悪鬼の類とみなされるようになっていました。
ヒンドゥー教では、シヴァの妃の暗黒相であるカーリーの眷属とされました。

仏教ではヒンドゥー・タントリズムのシャクティに相当する存在、つまり、動的女性原理として普遍化されました。
特にチベットでは、自我や言葉の煩悩から開放する智恵の守護者として重視されました。

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また、この広義のダキニに含まれるヴァジュラ・バーラーヒー(金剛亥母)は、その精霊的な猪豚の姿形を残したまま、最高レベルの女尊である「守護女尊」になりました。


<日本の中世の場合>

日本の中世でも、インドと似た宗教運動がありました。

日本に伝来したダキニ天(荼枳尼天)は、当初は死体を喰う悪鬼でしたが、稲荷信仰の宇賀神(蛇体の宇賀弁才天)と習合し、霊狐に乗った天女の姿でも描かれるようになりました。
そして、天照大御神の変化身とされ、天皇の即位潅頂の隠れた本尊にまでなりました。

密教とは無関係な潮流もありましたが、その根源には、おそらく、中部地方を中心に信仰される縄文以来の精霊的神格である「シャグジ(ミシャグジ)」があります。
これは、「嬰児神」、「胞衣神」、「丸石(石棒)神」などの性質を持つ神で、「地主神」、「道祖神」、「樹の神」とも習合しました。
日本の中世を代表する謎の多き神である「荒神」や「宿神」は、この「シャグジ」を背景とする、あるいは、「シャグジ」と習合した神です。

「荒神」は、仏教の文脈では、障礙神の「毘那夜伽」や、それと同体で護法神の「聖天」、忿怒尊などが習合し、神道の文脈では、地主神、山の神、樹木神、道祖神、蛇体の宇賀神などが習合した複雑な神格です。
ですが、この神は、「荒神縁起」では根源神にまで高められました。

「宿神」は、猿楽などの芸能者の神であり、秦氏の祖神の秦河勝でもあり、「荒神」とも習合しました。
猿楽師の金春禅竹は、この神を猿楽の「翁」であるとし、万物の根源神にして内在神にまで高めました。

以上のように、日本の中世では、「精霊」、「悪鬼」的な古い神霊を含めて、様々な神格が複雑に習合する中で、それらが根源神にまで高められることがあったのです。


<心理的に妖怪を開放して智恵にする方法>

単純化していうと、「精霊」が抑圧された存在が「妖怪」です。
心理的に、「妖怪」を自由で開放された「精霊」に戻し、そこから智恵を得る方法があります。

普遍化して言うと、抑圧されたイメージや象徴の力を解放する方法です。
フォーカシング指向心理療法の「フォーカシング」や、プロセス指向心理療法の「プロセス・ワーク」の方法がこれに当たります。

簡単に述べると、「妖怪」のイメージ、フィーリングに集中し、そのイメージが変化、成長し、物語が展開するままにします。

あるいは、そのイメージの本質である直観的・直感的なものに遡り、再度、新たなイメージとして展開します。
イメージを擬死再生させる儀礼です。

この作業は、一定期間の繰り返しが必要です。
これを行っているうちに、イメージや物語が徐々に肯定的なものに変化してきます。

この時に、「妖怪」を作り出している自我の部分を、否定して開放する必要があります。
つまり、自分自身も擬死再生することになります。

*フォーカシングについては姉妹サイトの「ユージン・ジェンドリンのフォーカシング」を参照してください。

*プロセス指向心理学については姉妹サイトの「プロセス指向心理療法のワーク」を参照してください。

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ヒーラーであり三界を巡る智者である水神と龍蛇神 [その他の雑文・雑論]

このページでは、天地を循環する水の性質から、水神の属性について考え、その表現形態である龍蛇神についてもまとめます。

水神は、三界を循環する存在なので、三界の智恵を持ちます。
その過程で、生物を成長させ、救いながら、自身が死して復活します。

ここには、シャーマンとも共通する側面もあります。


<三界の循環と復活>

水は、大地や海から蒸発して天に昇り、雲となり、雨となって天から地に下降し、山から川、地下水となって海に流れる、というように天地を循環します。

伝統文化の信仰では、水や水に関わる存在は、虹となって上昇したり、月に蓄えられたり、稲妻として下降する、と考えられることもありました。

大地・海→水蒸気(虹)→雲・月→雨(稲妻)→大地(山)→川(地下水)→海

この循環の過程で、水は天空、地上、地下(海)の三界を巡ります。

古代から世界的に、三界を知る存在は智者とされます。
シャーマンもそうです。
つまり、水神は、三界を知る「智恵」の神であり、三界をつなぐ「媒介(伝達)」の神です。

例えば、シュメールの水神エンキは、智恵の神でもあり、人間に情報を伝えて洪水から救いました。

また、水は、地上を流れる過程で、生命を育み、汚れを落とします。
つまり、水神は、「生命の水」、「豊穣」の神であって、「浄化(祓い)」の神です。

例えば、大祓詞で唱えられる瀬織津姫は、祓いの女神、川(水)の女神です。

これは、豊穣のために尽くし、治療という浄化を行う点では、シャーマンと同じです。

このように、水は、天空から地上に下り、生物を助け、地下(冥界)に下り、また、天に上昇します。
これは、「救世主」であり、「死して復活(昇天)する神」です。

キリストとも似ています。
シャーマンのトランスも、擬死再生として捉えられることもあります。

ですが、水神には、大雨や洪水となるという否定的側面もあります。
中東から西洋にかけての竜(ドラゴン)には、こういう破壊神、混沌神としての側面が強くあります。


循環する水としての水神は、雨神、川神、海神、井戸水神、泉の神、湖の神、水分神(みくまりのかみ)と関係が深く、これらは広義の循環する水神です。
また、嵐神、雷神、月神も、循環する水神と関連する神です。

水神には、「原初の水」、つまり、原初存在としての側面があります。
シュメールのナンム、エジプトのヌン、インド・イランのヴァルナ(水天)などです。
ですが、これは、循環する存在としての水神とは別の属性であり、別の神と考えることもできます。
海神や井戸水神などは、こちらの水神の一種と考えることもできます。


<循環する水神としてのスサノオ>

記紀神話のスサノオ(須佐之男命、素戔嗚尊)には、多様な属性がありますが、循環する水神としての側面が強くあります。
この側面から、つまり、循環する水の性質が反映している可能性がある部分を、列記して解釈してみましょう。

スサノオはイザナギが鼻を洗った時に生まれました。
これは、目を洗って生まれたアマテラス=太陽、ツクヨミ=月に対して、水(鼻水)、及び、風(鼻息)を表します。

スサノオは海原を治めるように言われますが、母のもとに行きたいと、青山が枯山になって河と海が乾くほどに泣いて、その後、高天原に上ります。

これは、海の水などが蒸発して乾季(冬)になることを表します。
泣き枯らすというのは不思議な表現ですが、天にいる月神や雷神が泣くと降雨となりますが、海や地上にいる神が泣くと水が水蒸気となって蒸発するので乾くのでしょう。

スサノオは、高天原で田とアマテラスに対する暴力的行為を行って、天の岩屋戸にこもらせてしまいます。
これは、大雨が田を壊し、雲が太陽を隠すこと、あるいは、冬の乾季には水蒸気が天に昇ったままで太陽を弱られると考えられたことを表します。

この罪によって、スサノオは、髪を抜かれ、手足の爪を抜かれて追放され、出雲に降ります。
これは、雨季(梅雨)に恵みの雨となって地上に下ることを表します。
「八雲立つ」出雲は、水が豊かに循環する地を表します。

スサノオは、出雲でヤマタノオロチを退治してクシイナダヒメと結婚します。
これは、氾濫して洪水となる川が治水され、田に農水となって流れ込むことを表します。

最後に、スサノオは根の国に行きます。
これは、水が地下に浸透して、地下水となることを表します。

このように、スサノヲには、恵みの水としての豊穣神、救いの神という側面と、大雨、洪水、乾季としての不毛神、破壊神、贖いの神としての側面があります。


<蛇神と龍・竜>

龍(竜)や蛇神は、水神の表現形態でもあります。
ですが、龍神や蛇神は、水神とは異なる属性も持っています。


蛇は、蛇行することなどから水、液体、流体の象徴です。
蛇神は、水神の多くの属性を持ちます。

そのため、蛇神は、天地を循環する存在、地下に潜る存在です。
蛇は首をもたげて虹となって天に上昇し、稲妻となって地上に降ります。
そして、とぐろを巻いては山となり、蛇行して川となります。

水の循環は、世界樹を昇降する蛇としても表現されます。

水の循環は再生(不死)の属性を含みますが、蛇神は、脱皮や冬眠から目覚めるという性質からも、再生の象徴です。

ちなみに、蛇は、天地の昇降だけではなく、身体も昇降します。
インドのタントリズムや、オーストラリア原住民のアボリジニ、中米のマヤでは、下腹部に眠り、身体の中枢を昇降するエネルギー(クンダリニー)を蛇として表現します。

蛇神には、「原初の水」と同様、原初存在としての属性もあります。
尾を噛む円環状の蛇(ウロボロス)は、原初、永遠、円環の象徴です。

また、渦巻状の蛇は、混沌、大地、無意識の象徴です。

ウロボロスは、錬金術が使う象徴でもあり、神智学のマークにもあります。
また、ミトラス教の無限時間神ズルワン神の体には、蛇が巻き付いています。

蛇は、男根の象徴でもあります。
そのため、女性的な存在の創造性を活性化する存在の象徴です。
農耕文化においては、それは天神の属性であり、豊穣の象徴です。


龍は、蛇(蛇神)の延長上の存在であり、国家レベルの宗教でその姿が拡大されたものでしょう。
龍は、大河の氾濫とその国家的統制(治水・灌漑)に関係します。

シュメール以来の中東から西洋では、洪水などの否定的側面が竜(ドラゴン)となり、混沌神、破壊神となりました。
例えば、バビロニアのティアマトなどです。

一方、中国では、治水という肯定的側面から、龍が王権の象徴となりました。
他地域でも、イギリス(ウェールズ)のペンドラゴンのように、王権の象徴となることがあります。
中国の影響で、東洋では、龍は破壊神という属性と共に創造神・豊穣神としての側面を強く持ちます。

ですが、コブラか大蛇が存在する、インド、エジプト、中南米では、蛇の龍化は見られません。

日本では、中国の龍と、中国で龍化したインドの蛇神ナーガが流入しましたが、王権と結びつくことはなく、日本古来のオカミ(龗神)やミズハ(罔象女神)などの水神と結びついたようです。


<智恵の象徴としての蛇>

蛇も、水神と同様に智恵の象徴という属性があります。

蛇の智恵は、本来、地下に潜る、つまり、無意識の智恵であり、復活・創造の智恵であり、それは「生命の水」と同様に不死の智恵です。

旧約聖書でも、エデンの蛇は、人間に智恵(知恵の樹の実)をもたらしますが、これは合理的な知恵であって、不死の智恵(生命の樹の実)とは異なります。

異端のグノーシス主義のオフィス派は、蛇が智恵をもたらす存在として信仰します。
そして、イエスを蛇と一体視し、生命の樹の実をたべさせるべく現れたと考えます。

ギリシャ神話では、竜はリンゴ(生命の樹の実)の守護者です。

また、シャーマン神であるヘルメスが持つ「カドゥケウス(ケーリュケイオン)の杖」は、二匹の蛇がからみあい、翼のついた杖で、伝令や商業の象徴とされますが、本来的意味からすれば、智恵の象徴でもあります。

医神のアスクレピオスが持つ「アスクレピオスの杖」は、一匹の蛇がからむ杖で、医学(ヒーリングの智恵)の象徴です。

近代の高等魔術結社ゴールデンドーンでは、カバラの象徴体系「生命の樹」を昇ることを「智恵の蛇」で表現します。

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ヒーラーでありイニシエーションの守護者であるクマ [その他の雑文・雑論]

北米、北東アジアなどの狩猟文化の影響の濃い地域では、クマは特別な動物です。

クマは、人間、もしくは、人間の親戚であり、動物の王であり、戦士であり、シャーマンのようなヒーラーであり、イニシエーションを守護する動物であり、一年の更新に関わる再生の動物であると考えられています。

クマに関する信仰を、北米のネイティブ・アメリカンを中心に紹介します。


<人間としてのクマ>

多くの地域で、クマは人間の親戚のような存在、あるいは、仮に毛皮をまとった人間であると考えられています。

おそらくこれは、クマがときおり二足歩行すること、そして、食性が似ている(木の実、キノコ、果物など人間と似たものを食べることなどから来るのでしょう。

このようにクマを人間に近い存在と考えることは、欧米でテディ・ベアが子供の最初の友人と言われていることとも、無関係ではないでしょう。


<動物の王、戦士としてのクマ>

多くの地域で、クマは、陸上や森の動物の王と見なされます。
無敵の肉食獣でもあるからでしょう。

クマは人間にとっては、襲われることもあれば、狩ることもある動物です。

クマは、戦士としての性質を持っています。
ある部族では、クマの夢を見た者は戦士として優れていると見なされます。
また、ゲルマンのエリート戦士集団のペルセルクは、「クマの戦士」という意味です。


<ヒーラー、シャーマンとしてのクマ>

クマは、薬草の根などを掘り起こして食べることもあるので、薬草に通じたシャーマン的存在と見なされます。
クマは動物界のシャーマン、ヒーラーなのです。

クマの夢を見た者は、ヒーラーとして優れていると見なされる部族もあります。
ヨーロッパでも癒しの動物とされます。
また、クマは何にでも変身できると信じる部族もあります。

部族や個人(クマを守護霊にする)によっては、クマの毛皮を着るシャーマンもいます。

また、ディオニューソスとも同一視されたトラキアの秘儀の司祭ザルモクシスは、「クマの毛皮を着た」という意味です。


<イニシエーションの守護者としてのクマ>

成人などのイニシエーションで、加入者をクマが飲み込み(食べ)、吐き出すという形で、擬死再生儀礼を行う部族が多くあります。

また、イニシエーションに挑む加入者が、クマと見なされることもあります。
ギリシャの成女儀礼であるアルテミスのイニシエーションでも、加入志願者は牝クマと呼ばれました。

これは、クマが動物の王であり、黒く、大きいという性質から来ているのでしょう。

また、クマは冬眠から再生する動物だからでしょう。
イニシエーションの擬死再生儀礼は、クマの冬眠と似ているとも考えられたのです。
そのため、クマの穴のような穴を掘って儀礼に使う部族もあります。

成人イニシエーションと関わりのある神話に、森に置き去りにされて、クマに助けられ、狩りの能力を獲得したといった神話が幅広い地域にあります。

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*イニシエーションの志願者を喰うクマ、トリンギット族の彫り物(クマとアメリカ・インディアンの暮らし)


<クマ結社>

スー族、ラコタ族などには、クマ結社が存在し、クマを「守護霊(パワー・アニマル)」になるとこの結社に入ります。

クマは強い力を持っているので、クマを守護霊にした女性、クマを守護霊にした夫を持つ女性は、危険視されます。
そういった女性は、クマを守護霊とする男性としか、結婚・再婚がしづらくなります。


<クマ狩りとクマ送り>

クマを狩る場合は、他の動物以上に、儀礼的に細心の注意が払われます。
例えば、以下のような具合です。

まず、占いで良い結果が出てから狩りに出かけます。
占いは、単なる成否の判定ではなく、狩りの許しをクマの霊や動物の主に得ることになります。

狩りの道具は、すべて儀式で浄化します。
狩人は、夢に見た刺繍模様を施された服を身に着け、クマを狩った後にはクマにそれをかぶせます。

クマのことは「おじさん」、「おばさん」、「いとこ」といった呼称で呼びます。
相手に聞こえて気づかれないように、といった意味もあるかもしれませんが、親愛なる存在として、その生命を尊重するという側面もあるのでしょう。

クリー族は、銃や矢のような飛び道具は使わず、こん棒か斧でしか殺しません。
つまり、正々堂々とした勝負が必要であるということです。

クマ狩りの時に、他の動物を追うことはできません。
クマが待っているのですから。

クマを狩った後には、クマの姿を褒め称え、やむを得なく狩ったことを説明し、動物の主のもとに戻った時には自分が正しい手順でもてなしたことを伝えてほしいと、語ります。

妻は、住居を綺麗に掃除してクマを迎えます。
狩人は、帰宅しても寡黙を貫きます。

殺したクマは、手順通りに丁寧に解体して、無駄なく食します。
その後、クマの頭蓋骨を木の柱に飾って祀ります。


また、アイヌのイオマンテのように、クマを人間同様に大切に育てて、祭りの日に殺して、冥界の神のもとに送り返す儀礼が、幅広く存在します。
この儀礼が、すべての動物の豊猟を保証するのです。


<クマと新年儀礼>

北米のマンシー族、マヒカン族、デラウェア族は、新年に、クマを殺し、クマを天に返してメッセージを届けさせる儀礼を行います。
この儀礼では、冬眠から復活するクマが、年を更新する重要な存在と見なされています。

この新年儀礼は、冬眠からクマが覚めた後の時期に、新月の夜に始めます。
儀礼を始める前に、儀礼で使うクマ狩りが行われます。

儀式用の小屋には、12の階段のある世界樹を立てます。
この儀礼は、天の12層に合わせて12晩続きます。
クマは初日に世界樹の根元で死に、一晩ごとに12層の天を昇って、最終的にクマは人々のメッセージを創造主に伝えます。

大熊座が天上にいるクマとされ、季節の星の動きも、この儀礼と関係しています。
春には、大熊座が冠座(巣穴)から出てきて、夏には、狩人座が大熊座を追いかけ、秋には、仕留めるのです。


<中南米のジャガーとトウモロコシ>

アジアからアラスカ回りで北米大陸に渡ってきたネイティブ・アメリカンが、米大陸を南下する途中で、クマの信仰はジャガーの信仰に置き換えられました。

オルメカ、マヤ、アステカ、インカの人々は、ジャガーを神としてあがめました。

マヤでは、ジャガーは地下世界の存在であり、地下の太陽と見なされることもありました。
また、太陽が夜にジャガーに手助けをしてもらって地下を潜り抜け、また昇ると考えられることもありました。

アマゾン北部では、ジャガーはシャーマンの味方であり、守護者であると考えられることが多いようです。


また、クマの信仰は、狩猟文化に基づいて始まりましたが、農耕を受け入れた部族では、クマは穀霊(トウモロコシの霊)と習合していきました。


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西アフリカのヒーリング・ドラム [その他の雑文・雑論]

西アフリカの音楽家(ドラマー)は、ヒーラー(呪医)です。
音楽家は、患者を即興的に踊らせながら、診断し、ドラミングによって治療します。

以下、マリのパーカッショニスト、ヤヤ・ジャロの「アフリカの智慧、癒しの音」を参照して、西アフリカのヒーリング・ドラムについて紹介します。

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<マリの音楽とダンス>

世界の多くの伝統的な文化では、音楽は単なる娯楽ではなく、個人の表現でもありません。
特定の場面で、それに応じた音楽が、宗教的、社会的、儀礼的、呪術的な目的を持って演奏されます。
音楽は、自然や精霊に影響を与えるものなので、場違い、時違いに音楽を演奏することは、許されません。

マリ(西アフリカ)でも、必要な時に、それに適した音楽(リズム)が演奏され、ダンスを踊ります。

マリでは、音楽は、労働に敬意を表す、共同体を祝福する、個人の存在を確認する、精神病を予防する、目に見えない世界と交流する、猛獣のなだめるため、雨を降らせるため、妊娠させるため…などなどのために演奏されます。

職業ごとにも、固有のリズムとダンスがあります。
中でも狩猟者のリズムとダンスは、素早く、奇妙なものです。

もちろん、儀礼ごと、そのプロセス、次第ごとにリズムとダンスがあります。
例えば、葬式の時には、遺体の移動時の音楽、埋葬時の音楽、埋葬後の音楽…などなどがあります。

成人儀礼でも、特別な楽器を作り、特別なリズムとダンス(入会のダンス)を学びます。
そのリズムとダンスは、自分が長老になって加入者に教えるまで、演奏することはありません。

人々がダンスをすると、そこに必ず精霊達がやって来ると考えます。
そして、精霊達が一緒に踊ると、トランスを伴ったダンスになります。
トランスに入れるためのリズムと、平常に戻すためのリズムがあります。
トランス状態になると、予言などを行うこともあります。


<ヒーリング・ドラム>

マリ(西アフリカ)では、音楽家(ドラマー)はヒーラー(呪医)です。

ヒーラーにとって、音楽は、目に見えない世界を媒介し、人間と環境との調和を回復させる存在です。
特に、バラフォンは、見えない世界の楽器であり、水と風の要素に関わる楽器です。

音楽家の見習いは、最初の1年間は、聴く訓練だけをします。
新しいリズムを学ぶことは、人格のより高い段階の音楽を伝授されることです。

ヒーラーとしての音楽家は、踊り手がダンスするのを見ながら、そのダンスに合う音を即興で演奏します。

演奏しながら、踊り手のダンスを細かく観察して、その人の精神の不調を発見します。
患者の内面に同調して、ふさわしいリズムを見つけて、そのリズムによって治療をします。

2人のドラマーがいると、それぞれが踊り手の上半身と下半身に対応して演奏します。
また、太鼓は胴体に、ベルは頭に共鳴します。

ドラマーは、踊り手の体の特定の部位に向けて音を送ることができます。
そして、リズムによって、その場所の治療します。

ヒーラーとしての音楽家は、人体組織や邪悪な精霊に関する知識が必要です。
病気に精霊が関わっている場合は、その精霊に相応しいリズムを演奏することで、その精霊を追い出します。

治療の対象は、個人とは限りません。
伝統的な文化では、個人の精神の異常は、共同体の異常と一体と考えられることもあります。一時的に異常になる人間は、共同体にメッセージを伝えるために先祖が選んだ人間だと考えられることもあります。
その場合は、個人の健康の回復には共同体の健康の回復が必要とされます。


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母なる大地を守るために農業を拒否した言葉(ワナプーム族) [その他の雑文・雑論]

かつて、カナダのマクマレーの市長が、ワシントン条約によって、インディアンに定住と農業を要求した時に、ワナプーム族の酋長のスモハラが行った返答は、有名です。


◇◇◇◇

あんたはわしに土地を耕せと言う。
わしにナイフを持って母親の胸を切り裂けと言うのか?
わしが死ねば、もはやわしをその胸に憩わせてはくれぬだろう。

あんたはわしに石を求めて掘れと言う。
わしに母の肌の下のその骨を掘れと言うのか?
わしが死ねば、蘇るために母の体を角絞めることももはやかなわない。

あんたはわしに草を刈り、藁を作り、それを売り、白人のように金持ちになれと言う。
どうしてわしに母親の髪を切ることができるというのか?

これは悪い決まりである。
我が一族はこのような決まりを守ることはできない。
わしは、我が一族は、わしのいるここに残ることを望む。

すべての死んだ者は新しい生へと目覚めるだろう。
彼らの霊は再びもとの体に戻るだろう。
我々は父祖の棲むこの地で待たねばならぬ。

◇◇◇◇


この酋長の世界観は、狩猟文化のそれです。
「原地母神(太母)」の自然な創造性を信仰し、不要な生命の殺傷を行いません。
ですが、田畑を耕すことは、地母神である大地を傷つけることであり、そこにいた植物を殺し、動物を追いやることです。

農業文化が行うこの自然破壊、生産の強要は、自然な大地の創造力の否定であり、それは同時に、人間の自然な無意識の創造力を否定することでもあります。

自然に生まれる恵みだけを受け取って生きる狩猟民にとって、それは耐えられない「生」の否定なのです。

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世界で最も美しい祈りの言葉(ラコタ族) [その他の雑文・雑論]

ラコタ族の酋長イエロー・ラークによる、非常に美しい祈りの言葉(訳・北山耕平)です。


◇◇◇◇

おお、偉大なる精霊よ
その声をわたしは風のなかに聞き
その息は世界にいのちを与えます
お聞きください

わたしは小さくて弱く
あなたの力と知恵とを求めています
願わくはこのわたしを
美のなかに歩ませたまえ

どうかわたしの目に
赤と紫の夕日をお見せください
どうかわたしの手が
あなたの作られたものを
さげすむことのないように
また、わたしの耳が
その声を聞き漏らすことのないように
おはからいください

あなたがあなたの子どもたちに教えられたこと
あなたがすべての葉や岩に書き込まれた教訓
それらを理解できるように
どうかわたしを賢くしてください

兄弟たちをけ落とすためにではなく
自分の最強の敵であるおのれと戦うために
どうかわたしを強くしてください

沈みゆく太陽のように
わたしのいのちが消えゆくとき
いささかも恥じ入ることなく
わたしのスピリットがあなたのところへおもむけるように
曇りのない目とともにあなたのもとを訪れる準備を
どうかととのえさせてください

◇◇◇◇


自然の中にある神性を読み取ってそれに従って生きることは、多くの宗教、神秘主義思想の基本的な考え方だと思いますが、それを素朴で、力強い形で表現しています。



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狩猟文化と農耕文化の思想の本質的違い [その他の雑文・雑論]

伝統的な狩猟文化は、あるがままの自然の創造性を尊重し、その恩恵を正しく受容しようとする思想を持っています。
あるがままの自然とは、自然(冥界)の贈物としての食料となる動物です。
これは、心の内側においては、潜在意識(冥界)から現れる心の動きの受容として現れます。

この思想は、高等シャーマニズムや、タオイズム、ゾクチェンなどの東洋思想、フォーカシングやプロセス指向心理学のような現代心理学にまで受け継がれています。
これらは、意識に現れるあるがままの心の動きを自覚して受容し、それが引き起こす変化を「なるがまま」に展開します。

一方の、農耕文化は、自然の存在を管理することを重視する思想を持っています。
自然の管理とは、山林を切り開いて作った田畑を管理することです。
これは、心の内側においては、無意識を含めた心の動きの、言葉や合理による管理として現れます

この思想は、主要な宗教、哲学、科学、精神分析学などに受け継がれています。
これらは、欲望を制限、抑圧し、雑念を払い、意識的な自我の管理を重視します。

一つの文化の中で、その生産形態、宗教形態、心理の形態は、類似します。
それらの形態を関連づけながら、狩猟文化と農耕文化を対比して、その本質を抽象的に捉えてみましょう。


<狩りの倫理>

伝統的な狩猟文化では、自然の創造性の象徴とでもいうべき「動物の女主」が、獲物となる動物を贈ってきます。
ですが、人間が正しい生活、特に正しい狩り、食事、葬送のタブーを守り、動物を満足させないと、「動物の女主」は動物を送ってくれなくなると考えます。

多くの部族では、本来、狩りは、彼らが対等と思う立場で行うべきもので、強すぎる武器を使ってはいけないと考えていました。

ある部族では、狩人は、狩りの成功を夢で見てから、見た夢に従って行います。
これは占い的な意味ではなくて、狩りは利己的な判断で行うべきものではないという考え方があるのでしょう。

ある部族では、獲物を狩る前後に、動物になり切ってダンスをし、その獲物の生涯を、生を賛美し、その動物の生を拡張するような意味を持つ儀礼を行います。
つまり、動物という自然の存在を尊重することが、狩りの前提なのです。

このように、狩猟文化では、自然を尊重し、人間中心では考えません。
これは、無意識を尊重し、意識や自我を中心に考えないことにつながります。


<農耕の論理>

狩猟文化では、山林を切り開いたり、大地を耕したりすることは、地母神を傷つけることであり、決して許されない行為です。

それに対して、農業文化は、森を切り開くという自然破壊から始まります。
原初において女神(自然の創造性)を殺害することで穀物が生またとする神話が世界で広く伝えられていますが、こういった神話には、農業が自然破壊から始まることが反映しています。

狩猟文化では、創造を行う(動物を生み育てる)のは、あの世の「動物の女主」です。
ですが、農耕文化では、創造を行う(穀物を生み育てる)のは、この世の人間であり、里にある田畑です。
もちろん、太陽や水などの自然の力は必要ですが、田畑は、様々な植物、動物、昆虫を追い出して作られ、特定の穀物や野菜を育てるように人の手で管理します。

このように、農耕文化では、人工的な作業によって自然を管理、排除することが重視されます。
これは、意識や自我が、無意識を管理、排除する考えにつながります。


<動物の狩りと潜在意識の気付き>

ネイティブ・アメリカンのシャーマニズム(高等シャーマニズム)では、「狩り」が、目指すべき心のあり方を象徴として使われます。

狩りを行う時には、合理的な推論によって動物を探して近づくとしても、最終的に動物に出会って狩るためには、合理的な意識を手放して、自然の中に、直観の中に溶け込まなければ成功しません。

また、狩りの場(山中)では日常的な言葉を話さないなど、日常的なものを持ち込まないタブーがあります。

つまり、狩人は、里から森の中に入る時、意識から無意識の領域へと入っていくのです。
動物が森の中から現れることは、無意識的な心の動きが現れることと似ています。

ですから、シャーマンの伝統では、意識と無意識の間に現れる心の微妙な動きに気づいて、それを受け止めることを、象徴的に「狩り」と表現するのです。

例えば、プロセス指向心理学では、心に一瞬だけよぎるものを「フラート」、フォーカシング指向心理療法では、漠然とした感覚を「フェルトセンス」と呼びます。
これらに気づいてそれを展開することは、シャーマンの伝統が言う「狩り」と似ています。

狩猟文化では、「森」の中から現れる「動物」は、人間のために「冥界」にいる「動物の女主」が送ってくれる存在です。
これと同様に、「無意識と意識の境界」から現れる「心の要素」は、人間の心の成長のために、「無意識」の「大きな自己(ハイヤーセルフ)」が送ってくれるものだと考えられます。

そして、日常的な言葉や合理的な知性を捨てて狩りに臨むことは、自我のコントロールを放棄して無意識的な心の動きを見つけようとすることと同じです。

狩りの時に行う、動物の生を尊重し拡張する儀礼は、無意識から自然に生まれるものを尊重し、育てることと同じです。

また、動物を残さずに食べ、魂を送り返して再生を願うことは、無意識から現れたものを十分に受け止めることで、次なる成長のために無意識から新しいメッセージを送ってもらうことと似ています。

逆に、無意識から現れる心の動きを抑圧すると、それは強迫的に何度も意識に再帰して、意識に否定的な力を及ぼします。
これは、報われない死を遂げた人間や動物の霊が、あの世に成仏せずに怨霊として共同体に悪い影響を与えると考えられることと似ています。


<ドリームタイムとのつながり>

古い狩猟文化を残しているアボリジニの世界観では、すべての地上の人や動物などの存在は、より根源的で生む力に満ちた「ドリームタイム」と呼ばれる始原の時に、地下世界から生まれ、今でもそこの存在とつながっています。

「ドリームタイム」の存在は、大地の中の「種」や「根」のような存在で、それが地上の「草木」に成長するのです。

「ドリームタイム」の創造力は、自然の内奥にあるだけではなくて、心の深層にもあります。
地上の事物は、心理的には日常的な言葉やイメージに対応します。

アボリジニが、日常の存在の背後に「ドリームタイム」の創造力を見ているということは、言葉やイメージが形ある存在になる以前の、無意識の中にあるその力や運動性に気づき、それらを重視しているということです。

日常的な言葉やイメージを中心に世界を見るのではなく、その深層の象徴性やイメージの変容に現れる、無意識からのメッセージを重視して読み取っているのでしょう。


<農耕のウツなる場への意図的な呼び込み>

狩猟文化のシャーマンや狩人は、冥界や森のような無意識的な領域に行ったり、自然にやってくるものを受容したりします。
これに対して、農耕文化のシャーマンや農夫・農婦は、自然な創造力を意識の領域に呼び込みます。

農耕文化のシャーマン(巫女、霊媒)は、豊穣神を憑依させ、御子神を生みます。
農夫・農婦は、里にある人工的に管理された田畑で穀物などを育てます。
また、先祖霊が穀物の成長を見守ります。

つまり、農耕文化では、神霊の力を人工的な領域に呼び込み、そこで育てます。
創造は、意識的で人間的なものの媒介が必要なのです。

狩猟文化では、力を感じるような自然の場所そのものが聖域です。
一方、農耕文化は、人工的な場所に外から創造性を取り入れるために祭祀の施設が作られます。

日本の神道に特徴的なことですが、神を招く祭祀場は、何もない空間を囲った聖域です。
あるいは、そこに特定の神が宿る依代を置きます。

神を憑依させる巫女も、心身を清浄に、無心にして、神だけを念じます。

これらは動・植物を追い払って穀物だけを作る田畑と似ています。

つまり、自然に現れるものを受け入れるのではなく、まず、すべてを否定して人工的な無の状態の場所、意識を作り、そこに特定の存在を呼び込むのです。
そして、この力が人間の世界、穀物に力を与えます。


<狩猟・農耕文化と宗教と心理学>

一般に、「男性」と「天上」は「意識的原理」の象徴で、「女性」と「地下」は「無意識的原理」の象徴です。

狩猟文化は、地下冥界と「動物の女主」を尊重し、男性シャーマンが自身を供犠にすることがあります。

それに対して、農耕文化は、太陽神や嵐神などの天上男性神を尊重し、女性を供犠にすることもあります。

また、狩猟文化では、冥界は地上の創造の基盤であり、冥界に戻ることは母のもとに戻ること、つまり、「死」とは「再生」のことです。

ですが、農耕文化では、冥界や冥界神は、天空神を弱体化したり、穀童を誘拐したりするような、悪い価値を帯びた場所です。

以上のように、狩猟文化が無意識的原理を重視し、農耕文化が意識的原理を重視しています。


無意識的から現れる心に注意を払ってそれを展開するプロセス指向心理学やフォーカシング指向心理学は、狩猟文化に由来するのでしょう。

これに対して、精神分析学は、合理的な強い自我に無意識を統合してコントロールすることを目指します。
これは、農耕文化に由来するのでしょう。

また、意識的な計らいを捨てて、あるがままの心の動きを尊重する瞑想は、自然の森に現れる動物を狩ることと似ているので、これらを行う宗教は、狩猟文化に由来するのでしょう。
タオイズムやゾクチェンのような宗教です

これに対して、雑念を払ったり、何かに集中したりする瞑想は、田畑で特定の食物だけを育てることと似ているので、これらを行う宗教は、農耕文化に由来するのでしょう。


<デュルの狩猟文化礼賛>

最後に狩猟文化を礼賛している学者を紹介します。

哲学的人類学者のハンス・ピーター・デュルは、その著作「再生の女神セドナ」で、狩猟文化を礼賛しています。

この書の中で、デュルは、アルカイックな狩猟文化の人間は、理性の彼方にあるものに対して理性的な関係を持っていたと書いています。
そして、彼らは、(今の地上の)生を愛し、自分が生きる世界と自分が一致していたのだと。

彼らは、自然が生みの苦しみにある時、産婆役のように手助けをした、とも書いています。

ところが、新石器革命以来、「彼岸の生」や「未来の生」に価値を置く「超越イデオロギー」と、「世界呪詛のイデオロギー(死のイデオロギー)」が生まれたと言います。

それらは、インドの農民の宗教と、イスラエルの遊牧民の宗教に代表されます。
仏教もキリスト教も、こういった現世否定のニヒリズムの思想なのです。

彼の主張していることは、非常に大雑把ですが、基本的には本質を付いていると思います。

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